「いち事業家のプライベートな記録」


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by generator_tomo
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カテゴリ:社会人(2000/3~2004/1)( 2 )


「愛」と「生活基盤」と「禊ぎ(みそぎ)」

なんでネット業界ではなく、アナログ・リテール業界に入ったのか。そして、その業界を楽しんでいるのか、ふと疑問に思う。

00年に大学を卒業する前に、ネットエイジに入社し、コテンパにやられて(笑)、大阪でネット関連で独立し、失敗し、再就職。

コテンパにやられた感とか、大阪失敗感のインパクトが強かったのかもしれないし、同じく、もっと面と向かったコミュニケーションを渇望したのかもしれない。が、正直な話、ネットビジネスの才能が無かった。

ITバブルな時代に、京都で学生として過ごした私と、東京で直にビットバレーなダイナミズムを実感した人とでは、ネットに対する思い入れが違いすぎる。私は、ただの広告媒体としか見れてなかった。

いずれにしろ、起業するのは、当然の結果で、中学生の時に「財閥を作りたい」なんて、宣言してたものだから、親は私のことを「○○に似てほら吹きね」なんて罵倒してたものだ。

学生最後の集大成、いわば就職活動が、どん底な99年の買い手市場。こんな記事が今だに残っているので恥ずかしい気もするが、(すみません、取材に対し無理やり嘘をついてたのかもしれません)、最終的には、当時の三菱信託銀行の内定を辞退し、亡き父曰く「いばらの道」を進んでしまった。

大阪の後、社会人になってからの5年間、チャンスを探し、チャンスを待ち続けていた。ビジネス交流会を開き、人脈を広げ、そして、企業家になるべく、自分の能力を高めていった。昔の上司に引っ張ってもらったVCでの経験で、会社の基本となるお金の流れとその作用を徹底的に勉強できた。気がする。

体調不良がきっかけでVCを辞め、自らのライフスタイルを実現すべくいよいよなる手段をとった。

いつの日か信頼を構築し、仲間になってくれた資産家からサポートを受け、私のメンターとなってくれた様々な経営者の言霊を感じ、自身の企業ノウハウとコンテンツで最初の店舗を出店する。

ばかばかしい急拡大路線をつっぱしった結果の大失敗と、3年にわたる社員ら仲間とのコミュニケーションを通じて、人生をどうやったらコントロールできるのかわかった。気がする。

自分のゴールは正直見えない。だからこそ、人生を「どう」やりとげるのかに主眼を置く(置かざるを得ず)。

そのポイントないし切り口は3つ。「家族」と「会社」と「政治」だ。言い換えると、「愛」と「生活基盤」と「禊ぎ(みそぎ)」である。今だと、スムーズに40歳で何をやっているのか、予想がつく。
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by generator_tomo | 2009-04-17 06:08 | 社会人(2000/3~2004/1)

激動だった社会人1年生

なんか、いろんな方から、今までどんな経験をして、どんな生活を送ってきたの?って聞かれますので、簡単に説明させていただきます。

<内定辞退>

いくつか人生の岐路があって、最も、悩んだ岐路は、ある銀行の内定を支店配属決定段階で辞退したときでした。この時には、正直なところ、大学にも迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ないことをしたなと思っています。

当時仕事としてやりたかったのが、企業体をファイナンスの面でサポートし、成長させることでした。いわゆる企業金融業務でした。もともとそれに興味を持ち出したのが、大学時代での起業経験です。企業がいかにして大きくなっていくのかということを、ファイナンスの面から実感したいという気持ちでした。同時に、政治的な側面で、国と企業の中間機関的な存在である金融機関に就職してみたいという気持ちがありました。

しかし、どうしても起業したく、1999年3月の内定から、10ヶ月間悩み続け、内定を辞退しました。とはいっても、何を事業とするか決定していませんでしたが、学生時代にやっていた事業(京都経済新聞社記事のキャッシュが残っていました。)を継続させるか、新しい事業計画を作ったりして、悩んでいました。

<ネット業界に就職>

結局、当時ITバブル時代だったこともあり、渋谷に行こうと決断し、株式会社ネットエイジ(現、株式会社ネットエイジグループ)の門をたたき、当時の西川社長にお願いして、2000年3月の大学卒業前に、入社させていただきました。ネットエイジは、ビジネスインキュベーターということで、アントレプレナーを募集しておりました。僕はそこで、ビジネスプロデューサーということで、職を得ることとなりました。その後半年間、事業計画書のフレーム、書き方等、学ばせていただきました。

<ペット関連事業立ち上げ>

しかし、同僚達のプロフェッショナルな思考についていけない一方で、友人がやっていた事業があまりいけておらず手伝いたいという気持ちもあり、2000年8月に同社を退職し、大阪でペット関連事業の立ち上げを行いました。それが、現在の、有限会社メインキャストです。

サイトを見ると、ペットを直接売っているように見えますが、単なるブリーダー紹介サイトです。ブリーダーを紹介し、直接ユーザーがブリーダーにお会いして、ワンちゃんを受け取っていただき、売買が成立したらブリーダーから料金を頂くビジネスです。が、このサイト、正直イケてません。僕が継続してやっていたら、ペットジャパンさんのように高値でバイアウトできたと思います。

<資金ショート>

ところが、当初の前提条件で、予定されていた資本金3百万円が無いということが判明。結局自分達のなけなしの資産で、ペット事業をスタート。しかし、当然4ヶ月で資金ショートしてしまいました。正直なところ、最初から無謀でした。事業計画は適当、資本金は無し。順序が逆ですね。

<支援会社の決定>

その間、狭い人脈で、投資家っぽい方のところを回り、出資の要請をしましたが、今から考えると、情けないプレゼンでした。結局2000年12月ころに、東京のある会社の会長を訪ね、支援の要請をさせていただいたところ、2001年1月には、その会社から支援を得て、一事業部門として再出発することとなりました。そのときの、交渉の成功(後々に成功ではないといことが判明するのですが)には、パートナーと2人で涙を流したことを覚えています。

僕は、資金繰りのつらさは、どの経営者よりも理解していると思っています。資金が無く、プライドも高い年頃。正直、生きるのさえつらかった思いです。ただし、その時に支えてくれた、大阪時代の彼女や友人には、本当に感謝しています。彼女らのおかげで、僕は道を誤らなかったと思っています。

<裏切り、誹謗中傷、婚約破棄>

しかし、支援してくれた会社の会長の周りについている輩が、正直胡散臭い。事業センスが無いのに、媚を売って子会社の社長になっているような人たち。子会社社長は、上を向いてしか仕事をしていない。実務よりも、会長の身の回りの世話ばかり。すごい会社でしたね。彼らすべて、自身の会社を倒産させたか、従業員から追い出されたと記憶しています。

その間、パートナーとは喧嘩のしっぱなしでした。私の人間的な未熟さも原因ですが、彼とはコミュニケーションが取れなくなっていました。ベンチャー企業にありがちな、ドロドロした世界です。そのような状況下、その会長の周りについていた輩がパートナーを口説き、ペットのイケていない事業を自分達の物にすべく、僕は追い出される形で、退職することとなりました。

その時にお付き合いしていて、婚約もしていた元モデルさん(実は2000年3月に東京に引越してからしばらくしてお付き合いを開始し、一度別れた人。寄りを戻すことで再度お付き合いを開始しました)。彼女の実家に、私を誹謗中傷する電話が女性の声でかかってきました。婚約破棄となったことも、この事業から手を引く要因ともなりました。精神的な嫌がらせだったし、また僕の人生が、強引に軌道修正されたような感じでした。誰がやったのか、わかりませんが、パートナーでは無いことは確かですね。

<精神的なダメージ>

2001年4月から、僕はなんとか人生を軌道修正したく、というよりはやり直したく、リクルートエイブリックさんにアプローチし、いくつかの会社を紹介していただくこととなりました。しかし、やはり精神的なダメージは回復せず、結局は実家に1ヶ月間戻り、静養することとなりました。

2000年3月、京都市北区から杉並区へ。
2000年9月、杉並区から大阪市西淀川区へ。
2001年1月、大阪市西淀川区から江東区へ。
2001年4月、江東区から佐賀市へ。

引越しの数だけでも、激動の1年だったことがわかります。精神的な余裕も、肉体的な余裕も、金銭的な余裕も無くなり、疲れきっていたことを覚えています。

引越しに関して加えると、2001年6月に大日本印刷株式会社に入社し、佐賀市から渋谷区へ引越しました。この1年半で5回引っ越したことになりますね。

(いずれまた続きを)
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by generator_tomo | 2006-05-09 03:01 | 社会人(2000/3~2004/1)