「いち事業家のプライベートな記録」


記録
by generator_tomo
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○○家に最後に残った課題

<記録用に残しておきます2012、今となっては本当にどうでもいいことです。>

最後に残っていた土地を、そもそもの約束通り返還してくれるよう、父と母は何度となく、本村氏に催促した。現在もまだ、○○家の人間の本籍地である。しかし、この土地は、1999年に太郎の実の姉の○○子が亡くなった後、太郎の甥っ子にあたる本村○○により、善意の第三者に売却されてしまった。価格は相当田舎なので安いが、弘次の不当利得は数千万円程度である。これに対し、私の知人の弁護士を介して、2004年半ばに、不当利得返還請求を行っている。反応があり、一度は金銭の返還の意思を示すもののその後無視をされ続けている。

   ○○○○神埼町大字鶴1701
   過去に「祇園町」と呼ばれた土地である。

私も私の妻も、そして私の子供もこの問題が解決されるまで、この土地を本籍とすることにしている。この○○家の歴史をきちんと学び、何が問題だったのか理解し、失敗を繰り返さないためである。

ま、今となっては、どうでもいいことです。(2012)
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# by generator_tomo | 2005-07-30 20:49 | 私の使命

○○太郎(祖父)という人物

新規事業への期待

戦後になって、電気の普及と農地改革等により、経営に大きなダメージを受ける。新規事業でしか路は開けない。○○家に養子として入ってくる太郎には、○○家の安定的な収入を確保するために「起業し成功させること」を期待していたようである。

その時、○○家には、娘しかおらず、且つ一人娘だった。従って○○の家を途絶えさせないために、養子を迎える必要もあった。そこで、財津(サイツ)という家から、太郎を養子として迎えることとなった。私の祖父であり、蝋燭屋を始めてから3代目にあたる。

太郎は、旅順工科大学(旅順の旧帝国大学ではなく、なる予定だった大学)を卒業後に佐賀県庁に勤めている。


「甘え」そして「失敗」

養子となったとたん、新規事業を起こさなければならなかったものの、残余財産が多大であったために、県庁を辞めて、「遊び人」となった。車を買って、姉ちゃんを引っ掛けて・・・・というエピソードは、私が小さいころまで広がっていた。一方で、新規事業もいくつか行ったようであるが、すべて失敗に終わっている。

例えば、牛をスウェーデンから数頭輸入してきて、酪農を始めようとしたものの、乳が出ず事業そのものがはじめられなかったり、初期投資を回収できない事業が増えていくばかりであった。


散財

太郎による散財は際限なく、とうとう人から借りてまで、遊びに使うようになっていった。一度お金を使う生活を始めると、なかなか抜け出せないのは、いつの世の人も同じである。

農地改革後と言えども、広大に残っていた土地は、巨大な家の存在を支える土地と、町のゲートボール場となっていた土地以外は全て売り払った。そして、太郎は、大阪へ、長男(私の父)を佐賀に残し、次男三男と長女を連れて、人々からの借金から逃げるように旅立った。なぜ、長男を残したのかは不明であるが、○○家の長男を残すことによって、必ず帰ってくるという意思を示したつもりだったのかもしれない。

父が中学校1年の時だった。父は親戚の家を転々としながら暮らしていたようである。(後ほど詳細にヒアリングしたい。)


再チャレンジ

しかし、目的は逃避ではなかった。大阪で事業を起こし、大金を作って故郷へ錦を飾るつもりだった。(ここのところは、今の僕の気持ちに近いものがあるかもしれない。)
詳細な事業内容は不明であるが、移動式のラーメン屋だったり、物販などを手がけたようであるが、どれもぱっとせず、借金を繰り返したようである。


最後の土地を守るために

大阪での借金から逃れるために、佐賀に1度、息子二人を連れて逃げて帰って来たようである。
それをきっかけに、財津家から本村家に嫁いだ、太郎の実の姉である○○子が、父と母に、「太郎の借金の形にとられないために、○○の土地を一旦すべて本村家に名義変更してはどうか。落ち着いたらもう一度○○家に土地を戻す」と、そのアドバイス/約束に従い、父は太郎の白紙委任状をもとに、名義変更を行った。


※そうしている中、昭和51(1976)年に私が誕生し、すぐに太郎の妻である私の祖母が亡くなった。


やはり、太郎の借金はすごかった。大阪から1日に数度となく、父に電話がかかる。仕方なく、ゲートボール場となっていて、○○家から財津家に名義変更を行った土地を売却して借金を全額返済した。

その後しばらくは落ち着き、なんとか借金をせずに暮らせるように、細々と飲食店を経営していたようであるが、詳細は不明である。しかし、時折父に、「お金を送って欲しい」と電話をしてきた。

私の母は電話を受けるのが苦痛であったし、またせっかく貯めたお金を渡すのだから、精神的なダメージは大きかっただろう。母は、自律神経失調症という病気になり、私が8歳になるくらいまで、ちょくちょく救急車で運ばれていた。

私は、太郎とは生前1度しか面識がない。私が3歳の時である。何らかの病気で入院したということを聞き、旅行がてらだとは思うが、両親と私でお見舞いにいった記憶がある。病院のベッドの上で、私の頭を一度だけ触ったような気がした。


太郎の死と兄弟の再会

その後2001年の終わりに、兵庫県に住む、父の妹から太郎が亡くなったという電話があったようである。私と両親、父の妹とその娘2人、父の弟2人が、大阪の茨城市に集まって火葬した。
葬式は開かなかった。

亡くなるまで、私も父も祖父とは一度も会うことはなかったし、父の弟達とも会うこともなかった。ただ、父は何も言わないが、ちょくちょく弟達にお金を送っていたようである。

父の弟、妹の人生も壮絶だったようだ。太郎に大阪に連れてこられて、青春時代をすごし、自分達の力で人生を切り開いた人達。弟の一人は、一時夜間大学に通っていたということである。もう一人は、若干脳に障害があるということであったが、私から見れば普通のように感じた。
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# by generator_tomo | 2005-07-29 20:40 | 私の使命

自分の先祖はどういう人達だったか?

僕が知りうる限り、自分の先祖(父方)は、佐賀県神埼郡の一部の地域の地主だった。周りには平性が多々あり、自身も平の文字を苗字の中に持つ「平林」である。少なくとも九州へ追いやられた平家となんらかの関わりがありそうだ。家紋には藤がついている。

戦前

彼らがやっていた事業は昭和初期まで二つあった。

一つは、土地を借りたい人に貸して、そこで収穫された穀物の一部を賃貸料として貰う、要は地主であるが、今で言う不動産事業に近い。

もう一つは、蝋燭メーカーである。最も儲かったのは、この事業であった。明かりといえば蝋燭で、今でいう電力事業に近いものがある。いわばインフラ事業。インフラを構築すれば、町の人皆が利用するため、チャリンチャリンとお金が入ってくる。

こうした利益は、1年かけて建築された巨大な家や、町に1台しかないような車に費やされる一方、檀家や学校に対し、土地やお金を寄付するなどしていたようである。ちなみに、神崎郡にある仁比山小学校の南側の道路は、平林家が寄付した土地である。

今では、潰れてしまった家だが、そのような私の家に対し、今でも親切にしてくれるお寺には、そういった理由があるようだ。

つづく
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# by generator_tomo | 2005-07-28 18:46 | 私の使命

3つの品質

設計
製造
市場

全てにおいて品質を高水準に維持・管理しなければ
企業リスクは増すばかり。

特に市場品質が悪ければ、クレームを受けたり
悪質であれば訴訟を受けたりする。

訴訟国の某国に進出する前に、
クレームに対する真摯な対応で、訴訟なんてしない
日本のマーケットでまず品質を上げる。

そして、進出した方がよい。
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# by generator_tomo | 2005-06-07 23:54 | 経営戦略

品質・納期・コスト、プラスアルファ

日本の「ものつくり」がフォーカスしてきたものは
「品質・納期・コスト」である。

品質をいかに良くするか。
納期をいかに短くし、期日を守るか。
コストをいかに抑えるか。

しかし、この「ものつくり3原則」に
足りないものがある。
それは「デザイン」である。

「デザイン」はもう一つの価値。
その価値がお金に換わる。
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# by generator_tomo | 2005-06-05 23:55 | 経営戦略